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【潜入!】まいぷれ小樽編集部が行く!

小樽の油彩画家HiNA さんにインタビューしてみました!

子どもの頃、夢中だったことは何ですか?

高校1 年生まで陸上選手として部活動を頑張る少女でした。全国大会へ行こうと練習を重ねていましたが、人間関係に悩んだり、トレーニング方法が自分に合わないと感じたりして、体調が悪くなった時期があったんです。

 


悩むことも増え、希望を失ったような感覚に陥った時に、母親から「本当に好きなことをやった方が良い」と声を掛けられ、「小さい頃は絵が好きだったから、絵を描いてみたら?」と言われたのが高校1 年生の終わり頃でした。

 

それから絵を描き始めたんですか?

4歳くらいの時、真っ白だった部屋の壁に、父親が突然チョークで青い線を引いて、こう言いました。「絵は、自由だ。自由に書いていいんだよ」

子どもの頃、チョークで絵を描いていた壁

両親からほとんど言われた事はありませんが、小さい頃は、あれをしちゃだめ、これをしちゃだめと言われて育つことが多かったのに「絵というのは自由なもの」という言葉に感動し、壁に絵を描く事に衝撃を覚え、その温かい記憶が今でもはっきり残っています。

 

 

それで、高校2年になった時、美術大学に進むことを決意しました。高校の授業が終わってから、札幌の予備校までJRで移動してデッサンを学びました。美大入試の基準になるデッサン技術は絶対に必要だったんです。

 

 

1年学んで受験をしましたが、準備が遅かったのもあって落ちてしまいました。そこから専門学校や短大を受ける事も考えましたが、信頼できる大人から、焦らずじっくり、本当にやりたいことを見つけた方が良いと背中を押してもらい、半年間くらい考える時間に使いました。

 

考えた、結果は?

やっぱり美術の道へ戻る事を選びました。ただ、最初に予備校に入った目的はデッサン力を身につける為だったのですが、それは大学に入るために必要な技術で、本当に自分がやりたい事ではありませんでした、苦手だし。

 

 

父親に教わった「絵は、自由である」という原点も改めて思い起こし、ファインアートという芸術の分野を学ぶべく、予備校へ戻りました。そのタイミングで出会った先生が、とっても良き理解者になってくれて、技術を磨くのはつらい事も多かったけど、楽しい気持ちの方が勝り、無事に札幌大谷大学の芸術学部に入学する事が出来たんです。

 

 

PC を使うデザインではなく、油彩を選ぶ事に、悩みは無かった?

無いと言えば嘘になります。P C を使ったデザインなどの方が、仕事も受けやすいし就職もし易い。でも、それよりも自分のやりたい道へ進む勇気が勝りました。

 

 

ただ、大学に入ってからは元々患っていたアトピー性皮膚炎の症状が悪くなり、常に体が痒くなる症状なども頻繁に出て、思うように出来ませんでした。薬で症状を抑える事が出来ても、治すことは出来ない。それでも、好きで選んだ道なので、どんなに体調が悪くなっても、学ぶことは楽しかったです。

油絵を描くための道具

大学卒業後は?

体調を崩すことが多く、責任を負って仕事が出来ないので、正社員などは探さずに絵に関わるアルバイトなどをしていました。それから数年経ち、やっと体調も落ち着いたので、1年だけですが正社員と
して学童保育の職に就きました。
この職業を選んだのには理由があって、祖母が広島駅で被爆した事を親から聞いていて、小学生のころから「平和って何なんだろう」と考える事が多かったんです。未来の象徴である子どもたちの笑顔が増えたり、喜びが増える事が、未来に繋がると考えていたので、子どもと関わる仕事を選びました。

 

 

そして、油彩画家としての活動を始めたんですね?

1年働いても体調を崩すことが無くなったので、満を持して油絵作家としての道を進むことを選びました。そんな時、父親から黄色のツナギをプレゼントしてもらいました。
父曰く、黄色はチャレンジャーの色なんだそうです。いつも着ていた白いシャツと、お気に入りのネックレス、これに髪の毛が黒だと色彩的に美しくない、なので色を抑えるために髪の毛を白にしました。ちなみにこれは、ウイッグです。

これからの目標は?

永遠に終わらぬ向上心を胸に、もっともっと表現力を高めていきたいです。絵画の世界から生きる喜びを与えられ、今があります。
私もいつか、誰かにとっての希望になったり、楽しさや自由を伝えられる人なりたいと願っています。

 

 

そして、私は海猫屋の娘として生まれました。知らない方も多いし、飲食店のイメージが強い方もいると思いますが、元々、海猫屋の2階は舞踏家が集まる、表現の場でした。アートを通じて熱い想いがここに集まっていくのを、感じて育ったんです。そんな、表現を追求する人たちが集まる場を作りたい、最近はそう感じています。

海猫屋が閉店する前に撮影した思い出の写真

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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